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         『 コロナ、伝えたかった想い 』

 コロナ禍でもいろいろな報道がありますが、今回はその中でも最前線の医療状況を分かりやすく伝えていただいた、【沖縄タイムス】さんの配信を引用させていただきます。昼夜を問わずコロナの治療にあたるすべての医療従事者に、深い尊敬と 少しの憧憬を込めまして。

令和3年6月13日配信の【沖縄タイムス】から。タイトルは

『コロナに感染した母「最期に触れたい」 感染防御具越しの家族対面』です。

 おでこをなでて手を握り、耳元で「ありがとう」と伝えると、感染防御具越しにも母のぬくもりをじわりと感じた。5月、77歳の生涯を閉じた那覇市の金城アヤ子さんは"太陽のような女性"だったという。沖縄県内では令和3年6月12日までに、新型コロナに感染した159人が命を落とした。その一人一人に、かけがえのない日常があった。大切な人の急な死に直面する家族の思いや、「最期に会いたい」という願いを受け止める医療現場の葛藤を追った。

 医療用防御マスク「N95」にゴーグル、キャップ、手袋。感染防御具に身を包んだアヤ子さんの長男・宏治さん(49)、次男・太志郎さん(45)ら家族が5月中旬、浦添総合病院のコロナ重症病棟に入った。

 横たわり、人工呼吸器を装着するアヤ子さんの意識はない。それでも家族は何度も手のひらに触れ、頬をさすり、温かさや柔らかさをかみしめた。「お母さん、諦めないで」「おばあ頑張れ」。別室でも、家族がタブレット端末越しに励ました。

 一目で病状の深刻さがうかがえる母の姿に太志郎さんの目から涙があふれた。感染対策上、涙や鼻水は拭えないため、流しっぱなしの顔で、時を惜しむように母のそばで過ごした。

 感染対策講習を受けた家族の近くには同院感染防御対策室の原國政直室長がぴったり寄り添い、少しでもリスクのある行動をとらないように気を張り続けた。

 「数日に1度は入室させてもらい、母の手の温かさや表情の変化を感じることができた。奇跡を祈りながら、でも十二分にお別れの言葉を語り掛け、少しずつ少しずつ状況を受け入れる心の準備が整った」と太志郎さんは言う。

 どこでどう感染したのか、今もはっきりしない。隣近所の仲良しメンバー4人のうち、アヤ子さんを含む3人が新型コロナに一気に感染した。

 4月16日。太志郎さんは、化粧品などの愛用品を手提げ袋いっぱいに詰め、救急車に乗り込む母の姿が印象に残っている。38度5分の熱があったが市販の解熱剤で一時は下がり旅行にでも行くような感じだった。本人は周囲を気遣い「恥ずかしい」と搬送を嫌ったが、太志郎さんらが「念のため」と説得。それが、最後に目にした母の元気な姿になった。

 入院後は感染対策で面会が許されなかったが、「梅干を届けてほしい」と電話をよこすなどアヤ子さんは変わらない様子だった。病床でも、心配する友達に「大丈夫、大丈夫よ」と連絡したという。

 それが、1週間後、容体が急変し、呼吸状態が悪化した。CT検査で撮った肺は真っ白だった。アヤ子さんに基礎疾患はない。「元気なのに人工呼吸器なんて」。不安そうな電話を最後に、人工呼吸器を装着し浦添総合病院に転院。薬で眠ったまま、同院のコロナ重症病棟に運ばれた。

 那覇市の金城アヤ子さんと共に新型コロナウイルスに感染した仲良しメンバーの一人、80代の女性は入院後すぐに重症化し2週間で亡くなった。遺族から、タブレット末端越しに何度か顔を見て声をかけたが、直接触れられたのは骨になってからだった、と聞いた。

 看取りにさえ立ち会えない現実が、次男・太志郎さんの身近にたちまち迫った。つい数日前まで、家の中心で笑っていたアヤ子さん。日常が断ち切られ、心が追い付かなかった。

 「奇跡を信じて、少しずつでも良い方向に行けるように頑張ります」「髪の毛を三つ編みにしてみました。また笑った顔を見せてくれる日が楽しみ」。混乱する家族を癒したのは、浦添総合病院から毎週、郵送で届くアヤ子さんの写真や、医師や看護師からの手書きの日誌。そして、感染対策を徹底した上で患者と家族の直接面会を可能にする取り組みだった。

 太志郎さんは「私たち家族が祈るより強く、母を救いたい、諦めないという医療現場の思いを感じた。医療が逼迫する中、病院側にはリスクや負担しかないのに、親身になって考えてくれて家族の心は救われた」と実感を込める。

アヤ子さんが息を引き取ったのは5月25日午前9時54分、数時間前には、子供や中学生の孫ら計8人が2組に分かれ、同院の原國政直室長の管理下で約10分ずつ、アヤ子さんと思い思いの時間を共にした。

医師に「あと数時間の命」と告げられてから15日後、39日間にわたるコロナとの闘いだった。

太志郎さんの父は16年前に脳梗塞で倒れ、半身不随と失語症の後遺症がある。その介護に尽くしてきたアヤ子さんの不在の理由を父には伏せていた。帰宅した母の遺影で最愛の人の死を察した父は、見たこともない表情で口をあんぐりと開けた後、涙を流した。アヤ子さんは、家族の寄せ書きの色紙と一緒に天国へと旅立った。

 火葬は、コロナ感染患者だけに対応する特定の時間帯で行われ、案内板の記載はアヤ子さん以外は名字のみ。コロナへの偏見が根強い社会の現状を受け止めた太志郎さんは日々、画一的に報じられる感染者数や死亡者数に想像力を巡らせてほしいと訴える。

 「自分のことより、人のことを考える母だった。その死を隠さず伝えることで、日々の数字の向こう側に一人一人のかけがえのない人生があり、家族の悲しみや苦しみ、医療従事者の方々の覚悟と尽力があったことを知ってほしい」と。

◆家族の「会いたい」思い受け止める医療現場

浦添総合病院の原國政直室長

 浦添総合病院は昨年4月から、長期入院が見込まれる新型コロナウイルス患者と家族が直接面会できる体制を取る。これまで40組以上の家族が徹底した感染管理下で患者と触れ合い、時に最期の時間を共にした。感染患者と家族の直接面会は異例だ。感染防止対策室の原國政直室長は「会えないと認めれば、コロナに負ける気がした。感染症の専門家がいることで家族の感染リスクを極限に下げられるなら『会いたい』という思いを受け止めたい」と話す。

 きっかけは昨年4月。同院で最初に亡くなった80代の男性患者だった。当時は他院同様に面会は認めず、男性の妻はタブレット越しに面会した。「カラオケが何より好きな人だから」と画面の向こうの夫に、2人の思い出の歌を涙声で口ずさんだ。

 「そばにいて、この80代の夫婦の紡いできた物語の尊さを知った。すぐ近くにいるのに会えない最期ってどうなんだろう。触れさせてあげたいと思った」。病院長らに面会を提案すると全員が賛成。妻に感染対策や防護具の着脱方法を学んでもらい、感染管理認定看護師の原國さんが付き添うことで、最期に夫婦が触れ合う時間を生み出した。

 一方で、直接面会を一人でも認めれば、他の希望者にも対応し、かつコロナ重症病棟内に足を踏み入れる家族や病院職員を感染リスクから守り抜く責任と覚悟も伴った。

 それから1年余、原國さんは院内感染対策や入院調整業務を率いながら、面会を望む全ての家族の思いを受け止める。どの面会にも付き添い、感染対策に神経を張り詰める。帰宅後に呼び出されることもしばしば。病院まで15分以内のホテルに寝泊まりする日々だ。

 重症患者を中心に受け入れ、収束が見えない日々に心が折れそうになったことは数えきれない。それでも「命も、心も救いたい」。誕生日に防御具姿の子や孫のハッピーバースデーの歌声に包まれながら息を引き取った患者。原國さんらの支援で家族の待つ家に帰り「自宅の天井を見ながら死にたい」という望みをかなえた90代の女性。家族内感染した患者の手を握り「ごめんね」と伝える家族もいれば、面会で驚くほどの回復を見せて退院した患者もいた。

 感染管理上、遺体は自宅に戻れないことが多く、亡くなった後も家族が一緒に過ごす時間は限られる。原國さんは「看取りに立ち会えても、きっと悲しみや後悔は残る。でも、せめて会えないつらさは抱えてほしくない。病院にとって数百人いる患者の一人でも、家族にはかけがえのない人。それを忘れたくないんです」と。

 わたくしも 『吾れ 六十にして耳順う』

 今後も日々のコロナワクチン接種に 従事して参りたいと思います。

 

 

 2022年1月



              いとう外科内科クリニック
                       伊藤博之